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がんばるのやめた。

〜うつ病の私のキモチ、発信します〜

うつ病×読経=呼吸を取り戻す/私は何もできないが、経は唱えられるぞ!

仏教 心の叫び うつ病

お久しぶりです。たつぃーです。

いつのまにか、日は過ぎておりました。

実家へ戻り、毎夜眠れず、昼夜逆転の生活へ堕落。

心は落ち着かず、やる気はなく、何も果たしていないことによる無力感に負け、気持ちの優れない最悪の暮らしであります。しかしその全ては自らが撒いたことです。仏教の言葉を借りれば「因果応報」とは現在の私の状態を言い表すのにぴったりではないかと思います。発作に疲れ、惰眠を貪る。眠ることに疲れ、食べることにも疲れ、人と話すことにも疲れ、やることなすこと億劫な気持ちである。カルマが蓄積されていることを実感します。私のうつ病生活は自業自得の負のスパイラルのようなものです。鬱蒼としたこの気分は私の生活の業の深さに依るものでしょう。業の深い男となりました。両親を失望させて心苦しい気持ちです。

なるほどこんなどうしようもない人間であるが、文章を書く、絵を描く、動画を見る、音楽を聴く、本を読む、これらについては気が向いたら行えば良い。今はできることをできるときにやっている。というかそうするほか、どうする術もないのです。快楽を貪る。つかの間の達成感に酔う。そんなことばかりしていると、なんとなく負けた気分になってしまいますが抗うこともできません。気力を出さないと、ということを考えます。元気にならないと、と思います。悩みます。周りの人間にとって恥ずかしくない人間になりたい、と思います。しかし、それらをやり過ごして生きながらえております。

 

そんな私ですが、毎日続いていることがあります。読経です。

曹洞宗にも悪人正機という考えはあるのだろうか。ないだろうな。悪人正気は浄土真宗ですものね。詳しくはわかりません。私は仏道における悪人でしょうが、私も船に乗せてもらえるのでしょうか。わかりません。そもそも転生輪廻の後に救われたいという気持ちはありません。現世を上向きにポジティブに生きていきたいです。やっぱりネガティブは寂しいですから。

 

というわけで読経について、私は宗教上の効果を期待しているわけではありません。

読経は、それを行うことの軽易さ、そして読経後の爽快とした気持ちを迎えたい、という即効作用を求めて行っているに過ぎません。いつのまにか継続していたまでです。

 

ええ。このように読経以外何もできない自分に対して、自己嫌悪の気持ちを拭うことは残念ながらできません。自己嫌悪することで自らを慰めているのでしょうか。わかりません。

なので、今日は記事を書きます。腹が立つこの己自身に一矢報いるつもりで、こうして負の感情を吐き、どん底にいる私の気持ちを記事に残すという気分が湧いたのです。

そうすることで私の気が紛れれば良いです。この文章は何日もかけてやっとの思いで紡いでおります。拙くも頑張って書いている文章です。誰かの目に止まってくれたら嬉しいです。

 

さて、前置きが長くなりました。本日は読経について、私が毎日継続することができている読経について書きます。

気持ちを落ち着かせる効果について、うつ病の私が読経によって得られた効果を、実感に基づいてまとめていきます。

 経とは何か

経とは道具である

私が本日取り上げる経とは「般若心経」です。

実家は曹洞宗の檀家であり、「般若心経」は幼い頃から慣れ親しんできた経典になります。

そもそも仏教には八万四千の法典があると言われます。キリスト教の聖書(旧約・新約)イスラム教のコーランと比較しても、仏教経典の数は夥しいものがあります。

その宗派ごとに経典をそなえているためです。

インドで始まり、南伝と北伝で分化していく歴史の中でたくさん派生していきました。

そもそもブッダが口伝により弟子たちへ教えを説いたため、ブッダが書いた経典はありません。その弟子によって書き残された教えが経典であり、弟子から弟子へ樹形図のように広がって現存する仏教経典の体系を築きました。

般若心経は、そのうちの一つの経典です。

 

今回はその意味、内容については特に重要視しません。

なぜなら、経は道具に過ぎませんし、私はその意味を理解して上手に扱うことはできないのです。

 

もっと上手に使うことができる人は多くいるでしょう。

仏教は哲学のようなもので、その精神的な知恵はとても素晴らしいものがあるのでしょう。

でも私のこの肉体に在る発作を治めてくれるのは、その緻密な精神性に宿るのか。

違います。

うつの発作を整えたいという気持ちに在る肉体は、その知恵を正しく理解できるだけの器を持ち合わせてはいないのでは、と思います。少なくとも私に、その気力はありません。

 

では正しく使えない道具に価値がないのか、というとそういう訳でもありません。

 

『般若心経』 

全文わずか300字弱です。

 

『般若心経』

 

佛說摩訶般若波羅蜜多心經

ぶっせつまかはんにゃはらみたしんぎょう

 

觀自在菩薩行深般若波羅蜜多時

かんじざいぼさつぎょうじんはんにゃはらみたじ

 

照見五蘊皆空 度一切苦厄 舍利子

しょうけんごうんかいくう どいっさいくやく しゃりし

 

色不異空 空不異色 色卽是空 空卽是色

しきふいく くうふいしき しきそくぜくう くうそくぜしき

 

受想行識 亦復如是 舍利子是 諸法空相

じゅうそうぎょうしき やくぶにょぜ しゃりしぜ しょほうくうそう

 

不生不滅 不垢不淨 不增不減

ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん

 

是故空中無色無受想行識

ぜこくうちゅうむしきむじゅそうぎょうしき

 

無眼耳鼻舌身意 無色聲香味觸法 

むげんにびぜっしんに むしきしょうこうみそくほう

 

無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明盡

むげんかい ないしむいしきかい むむみょう やくむむみょうじん

 

乃至無老死亦無老死盡

ないしむろうむろうしやくむろうしじん

 

無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故

むくしゅうめつどう むちやくむとく いむしょとっこ

 

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故

ぼだいさつた えはんにゃはらみたこ

 

心無罣礙無罣礙故 無有恐怖遠離一切顚倒夢想

しんむけげむけげこ むうくふおんりいっさいてんどうむそう

 

究竟涅槃 三世諸佛 依般若波羅蜜多故

くぎょうねはん さんぜしょぶつ えはんにゃはらみたこ

 

得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多

とくあのくたらさんみゃくさんぼだい こちはんにゃはらみた

 

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪

ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ

 

能除一切 苦眞實不虚 故說般若波羅蜜多呪 卽說呪曰

のうじょいっさい くしんじつふこ こせつはんにゃはらみたしゅ 

 

卽說呪曰

そくせつしゅわつ

 

揭諦揭諦 波羅揭諦 波羅僧揭諦 菩提薩婆訶

ぎゃてぎゃて はらぎゃて はらそうぎゃて ぼじそわか

 

般若心經

はんにゃしんぎょう

 

漢字の羅列を見ても何のこっちゃ、と思います。

しかし私は在家信者。それで良いのです。

意味を知りたくなったら訳など調べればいくらでも出てきます。

素晴らしい知恵。緻密な教えが凝縮されているんじゃないか、と思います。

 

ということで今回は意味を棚上げにしていきます。私は解脱を目指す出家僧ではないですから、現世利益を求めれば良いのです。

道具として用を為せばそれで良いのです。

 

経を使ってできること

経を使ってできることは2つあります。

読経、写経。

読経は経を唱えること。写経は経を書き写すこと。ですね。

他にも面白い使い方があるのでしょうか。カラオケで歌えるらしいですね、私はまだカラオケで歌ったことはありませんので割愛します。笑

やっぱり歌ったら法事の雰囲気になるのでしょうか。

 

読経は簡単

読むだけですから。小学校1年生の国語の授業を経験している人であれば誰でもできます。

考えることは何もありません。声を出して唱えるだけ。読み間違えても間違えた箇所からやり直しすれば良いです。

そして般若心経であれば、2分もあれば唱えられます。

苦なく詠唱できる文章量です。

 

リズムや音の高低息継ぎのタイミングに決まりはありません。

自分の唱えやすいように、単調に、一切の思考を止めて文字を追いましょう。

気にするということが何もありませんから、不思議と発声にのみ集中することができます。 

 

読経の効果 

うつ病の私にとって、読経によって得られる効果は以下2つになります。

 

✳︎やる気スイッチ(気分転換)

✳︎呼吸の安定

 

やる気スイッチ・・・

時間の区切り、脳内のリセットといった感覚があります。

健康な精神は健康な肉体に宿る、という言葉もありますが、この精神が背筋がピンと伸びるような不思議な感覚は私が慣れ親しんでいるからか。それともこの仏教と日本人が密接に生活風俗に関連していることによって身体に何らかのホルモンが分泌されて作用することによるものなのか。日光が人間の体内時計のリセットの影響及ぼすことを考えると、この読経行為そのものに精神を安定させる何らかの神経上の影響が感ぜられます。

不健康な精神に不健康な肉体の宿る私の精神について、読経は精神をリセットし矯正させる作用があるように実感します。

 

呼吸の安定・・・

読経方法に縛りがないことが要因であると考えます。

任意の音程で一定のリズムで発声し、息継ぎも自分のタイミングで行えば良いということから、読経中に無心情の境地に達することは難しくありません。

時には発作の中、藁にもすがる思いで読経を繰り返すこともあります。

 

しかし、疲れ果てるほど繰り返された読経の後に残る心情は、発声過多による疲れ。

時間を無為にすることへの愚かさ。馬鹿らしさ。そして落ち着き。

なんであんなことしたのか、なんで悩んでいたのか。パニックになったのか。

読経によって、その前後の時間は強制的に区切られます。そして読経後にはそれより以前のことが全て過去のことであるとわかり、ハッとした気持ちになります。

 

tatsyn.hatenablog.com

 

 

写経は少し根気がいる

写経は、疲れます。

字は紙上に残ります。きれいな字で書きたいし、間違えないようにしたい。

そして漢字ばかり書き続けるということが苦痛で、どうも私の性に合いません。

昔インドへ旅に出た時、仏教遺跡を周遊したのですが、宿で読経したいと思いネットで般若心経全文を検索し、それを読み上げるというために写経したことはありました。

時間は潰れるので、旅行中にすることないよって時はなかなか良い暇つぶしにはなるのではないでしょうか。

 

まとめ 

さて、今日は読経についてまとめました。

気分転換として、自分の気持ちを改めるという意味で、また時間を区切るという効果を求めての読経は試す価値があると思います。

穏やかな気持ちを取り戻すリハビリとして私も継続していけたら良いなと思います。

 

というわけで今日はこの辺で。

それではー。